幕末〜倒幕から開国

1870年8月 グラバー商会倒産

明治維新政府の誕生と同時に

10万ドルの負債を理由に倒産。

 

その後、資産と経営は岩崎弥太郎の三菱財閥に引き継がれた。

1868 1月27日 鳥羽・伏見の戦い

旧幕府と倒幕勢力の争い。

慶喜は、それまでの諸外国との交易による国内経済の混乱や、
幕長戦争の敗北で権威を失った幕府の建て直しなど、多くの幕政改革を行なって絶対主義権力化しようとしていた。
一方、倒幕勢力の薩摩藩と長州藩は、慶喜を逆賊で追討する倒幕密勅の大義名分得る為、朝廷工作を進めていた。
慶喜は、幕府の絶対主義権力化を諦め、政権を朝廷に返上する事で薩長両藩の大義名分を封じる事に成功する。
聡明な慶喜は公議政体派政権(諸侯による合議政権)の首座に就く事を新たな目標とする。
これに対して倒幕勢力は攻勢を強め、12月9日に王政復古のクーデター(薩摩藩・土佐藩・芸州藩・尾張藩・越前藩の五藩)を断行、明確に慶喜と旧幕府に対する敵対的な立場を表明する。

ちなみに、明らかに慶喜と旧幕府を敵視したのは薩摩藩のみで(後に長州藩も参加)、土佐・芸州・尾張・越前は慶喜と旧幕府に同情的であり、倒幕派藩士の台頭を快く思わず、自分達と同じ封建諸侯である慶喜の復権をむしろ望んでいた。

慶喜はクーデターを知り激昂する会津藩や桑名藩を宥め、京から大阪に退去して新政府内の公議政体派と連絡をとり、様子を伺う。
倒幕派はクーデター直後こそ主流派だったが、慶喜の協力で平和的に政権交代を主張する公議政体派が圧倒的に優勢な情況となっていった。


情況を挽回しようと、西郷隆盛が旧幕府を挑発するなど、破壊工作が行なわれていた。
こうして江戸では旧幕府と薩摩藩が交戦状態に入り、大目付滝川具挙により28日に江戸は既に開戦したとの情報が大阪在住の旧幕府軍に入る。新政府内の薩長両藩を憎んでいた会津藩と桑名藩を始めとする旧幕府軍の将兵は「江戸の次は京で開戦すべし」「薩摩討つべし!」と激昂、遂に一万五千余の旧幕府軍が京を目指して進軍を開始した。

 

新政府軍が劇的な勝利を得る。

 

この時グラバー商会は、幕府が注文していた当時最新鋭のアームストロング砲を

長州藩に横流ししていたようだ。

1867年11月9日 大政奉還

第15代将軍徳川慶喜は、政権返上を明治天皇に上奏した。

しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞任していなかった。

慶喜は将軍職辞任も朝廷に申し出、勅許されて

12月9日の王政復古の大号令において幕府の廃止が公式に宣言される。

1866年1月21日 薩長同盟成立

西郷隆盛と木戸孝允が合意した攻守同盟六か条。

この会合の場に、坂本龍馬はいなかったとされる説もある。

 

この2日後、幕府方から坂本龍馬が襲撃される「龍馬の伏見寺田屋事件」が起こる。

龍馬は愛人おりょうと、高杉晋作にもらったピストルに助けられ、薩摩藩士の出撃で救出された。

その後、龍馬はおりょうと鹿児島の霧島を訪れ、「日本初発の新婚旅行」を束の間楽しんだ。

1865年7月 幕府による第一次長州征伐

長州藩が幕府よりも近代火力、軍艦の点で幕府より強く、負けなかった。

1864年8月 四国艦隊下関砲撃事件

17隻の連合艦隊(フランス、オランダ、アメリカ)が一撃で長州藩の砲台を破壊。

陸戦隊を上陸させて占領した。

主力のイギリス軍艦とは交戦していない。

長州藩内の攘夷派が撃滅された。

1863年

7月 薩英戦争

生麦事件を口実に、イギリス艦隊が薩摩を懲罰攻撃へ。

戦乱の最中、五代友厚はイギリス艦隊の方に藩船三隻と共に投降している。

5月 神戸海軍操練所の設置

勝海舟が軍艦奉行として設置。

坂本龍馬も塾生である。

1月31日 英国公使館焼き討ち事件

品川御殿山で、建設中のイギリス公使館が

長州藩の尊王攘夷派武士に襲撃された。

高杉晋作、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、久坂玄瑞、品川弥二郎らが加わっていた。

当時、イギリス人の商取引によって日本から金銀が流出し、激しいインフレが起こっていた。

 

しかしその半年後、伊藤博文と井上聞多はイギリスに密航、ロンドン留学している。

正式な記録はないが、写真は残っている。

1862年

8月 生麦事件

横浜外国人居留地で、島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、

供回りの藩士が殺傷した。

外交官アーネスト・サトウは日記で、殺傷された3人のイギリス人を

「植民地に流れ着いた不良で、現地人を相手に荒稼ぎする下品な連中」としている。

1860年 幕府使節団が咸臨丸(かんりんまる)でサンフランシスコに渡る

勝海舟、福沢諭吉と共に、幕府海軍操練所教授としてジョン万次郎も同船。

1859年 薩摩藩士五代友厚が上海へ密航

五代友厚は1857年に長崎留学生としてオランダ士官について学び、

1859年に上海に密航している。

上海には商社ジャーディン・マセソンがあり、

ジャーディン・マセソンの日本支店とも言えるのが

トーマス・グラバー商会であった。

 

グラバーは1859年9月、上海から日本へやって来て、

長崎で輸出用の再製茶業の事業を出発した。

 

アームストロング砲という当時最新鋭の野戦大砲を製造していたアームストロング社が

グラバー商会についてマセソン社に問い合わせた所

マセソン社パートナーのチャールズ・マグニャックは

「グラバー商会は長崎で最良の商会で、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でもある」

と保証を与えている。

(杉山伸也 「明治維新とイギリス商人ートマス・グラバーの生涯」)

1853年7月 ペリー提督来航

マシュー・ガルブレイス・ペリー提督率いる、アメリカ合衆国東インド洋艦隊が

江戸湾深くまで入り込み、礼砲と言う名の威嚇砲撃を行う。(砲艦外交)

当時は江戸城の裏まで海だった。

BATNA理論

the Best Alternative to No agreement

 

ノラリクラリと逃げ回る相手とどのように交渉を続け、勝ち取るか。

交渉が妥結しない時、それに代わるべき最良の交渉術。

現代でもハーバード大学で教えられてる。

(藤田忠氏・国際基督教大学教授)

 

「ペリー提督日本遠征日記」木原悦子訳 小学館刊

市の臨海地域全体に柵が設置され、われわれの上陸を警戒しているようだ。

確かなのは、大砲を積んで攻撃すれば、江戸市はひとたまりもないということだ。

 

抵抗は無益と悟った日本は、欺瞞と術策を尽くし、アメリカ政府の理にかなった要求を呑まずにすまそうとした。

 

皇帝宛の文書を受け取るのに相応しい人物を任命しなければ、武力をもって海岸に向かい

どんな結果になろうが国書を届けるつもりである。

 

日本人の興味を引いたのはボタンだった。目に触れる物は何でも写生する。

彼らは自分の好奇心を満たすのには熱心だが、自分自身の事を尋ねられると口が重くなる。

 

日本国内の法律や規制について、信頼できる資料を集めるには時間がかかるだろうし、

領事代理、商人、宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならぬことは確かである。まずは諜報員に日本語を学ばせなければならない。

 

日本人はずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術に長けている。

1851年 ジョン万次郎(中浜万次郎)が帰国

ジョン万次郎は漂流漁民であったところ、アメリカの捕鯨船に助けられ、英語教育を受けた。

帰国後、琉球→鹿児島→長崎→土佐→江戸と日本各地を移動している。

鹿児島では島津斉彬の面前で一ヶ月ほど取り調べを受けた。

土佐では有力者の屋敷で講演会のような事を行い、岩崎弥太郎と出会う。

江戸では幕府に通訳方として召し出される。

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